12月27日 日曜日 晴れ
●天皇杯準決勝
横浜フリューゲルス1−0鹿島アントラーズ
うわあ。
本当に勝つとは思ってなかった。
磐田に勝っただけでも驚きなのに、さらに鹿島にまで勝つとは。
楢崎、三浦アツのプレイはなんだか神憑りみたいだった。
この調子だと、元旦も勝ってしまうかもしれない。


12月28日 月曜日 晴れのち曇り
朝から変に暖かい一日だった。
西口の病院は野戦病院みたいにごったがえしていた。

●ソニック
ソニックアドベンチャーはものすごい。
マリオ64が出た時も心底びっくりしたが、こんどはさらにびっくらこいた。
信じられない。
どうして3万円のマシンでこんな表現が可能なんだろう。
オレのような旧世代は、今後、一生びっくらこき続けるんだろうか?

実際、ソニックをやっていると、ポリゴンの立体感とスピードについていけずに「3−D酔い」をしてしまう。
おそらくこれは私のアタマがひらべったいからだと思う。

ゼビウスが出た時、
「うわああ」
 と思ったものだった。
 が、いまの若い連中の目からみれば、あのゲームはどうにも平べったくで、どうしようもなくノロマなペラペラアクションだと思う。
 第一、爆弾投下が投下に見えないだろう。
 我々の世代の者は、あのゼビウスのひらべったい疑似3D空間から高度感を認識する術を知っていた。
 具体的に言えば、斜め前方に向かって漸次縮小しながら進む物体を「落下する爆弾」と認識する約束事を共通理解としてあらかじめ持っていたのだ。
 が、その約束事をのけてみると、ゼビウスの画面はまるっきりの平面である。
 なんの奥行きもないし、ひとっかけらの高さもない。

 が、良いか悪いかはともかく、当時のゲーマーには、あの種の平面的疑似3D空間から立体感を感じ取る能力が不可欠だったのだ。
 なさけない能力ではある。
 もっと極端な例をあげるなら、私は、文字キャラクターだけで構成されたローグの空間に、立体感を感じることができた。
 赤字で表現された「:」(ころん)が食物であり、アルファベットの「T」がトロールであるあの空間をリアルなものとして受け止めるためには、相応のイマジネーションが必要だった。
 が、そんなイマジネーションは、自慢にもならない。

「オレたちの頃は、エロ写真なんかなかったから、辞書の〔ストリップショオ〕とか言う文字だけで興奮したもんだ」
「ああ、〔性器〕なんて、字見るだけで勃起したぞ」

 オヤジの自慢。
 ばかみたいだ。


12月29日 火曜日 晴れ
辰吉は負けたようだ。
試合は観なかった。
オレにはわかっていた。
エゴに勝てないボクサーは決して敵に勝てない。

じゃあ、エゴに勝てないライターはどうだ?
うーむ。
エゴのないライターよりはましだと思うけど……

でも、エゴに勝つのって、誰なんだろう?
スーパーエゴ?
ふん。

エゴに勝つための最もてっとり早い方法は、小心者になることだ。
が、辰吉は、小心者になれなかった。
仮に、小心者になったとして、やっぱり辰吉は敵に勝てなかっただろう。
強いエゴとより強い克己。
そのふたつを併せ持っていなければ強いボクサーにはなれない。
ああ、
気が遠くなりそうです。

シラけはじめているエゴと、投げやりな克己。
だからオレは辰吉の試合は観たくなかったんだ。
自己嫌悪に陥らないでいる自信がなかったからね。
いや
自己嫌悪ならまだ見込みがあるけど
自己憐憫だったりしたらたまらないからな。

またぞろ
おお わが友 辰吉丈一郎よ
とかなんとか
そんなふうな詠嘆をかこちながら長い夜を

寝よう。


12月30日 水曜日 晴れ
年賀状を書いたものかどうか迷っている。
正直なところを述べるなら、私は、本来、ああいうものは好きではない。
だから、小学6年生の時に書いて以来、二十数年間、「虚礼」と極めつけて書かなかった。
それはそれで通用してきた。
というか、年賀状に返事が来なかったぐらいのことで気を悪くするような奴とは付き合わなければ良いと考えて、その方針を図々しくも貫徹してきたわけだ。

が、3年前に禁酒をした折に、禁酒の報告と心機一転の意味を兼ねて、各方面に年賀状を出した。
以来、一昨年、昨年と、この3年間は50枚ほど出している。

で、今年だ。
3年間、まがりなりにも年賀状往来に付き合ってみて思うのは、やっぱりあんなものにはたいした意味がないということだ。
もらってうれしいわけでもないし、愛想のない年賀状だと、かえって腹が立ったりする。
謹賀新年。

ま、うさぎ年についてうまい俳句でも思い付くことができれば書く気が起こるのかもしれないが。
ん?
つまりオレという男は、人にひけらかしたい上手い文句を思い付いた時にだけ年賀状を出すテの男なのか?
うむ。
おそらくその通りだ。

うさぎうさぎ……
「憂さ」とかけることができるだろうか?
あるいは「赤目」から「寝不足」を引っ張ってきてもよい。

憂さゆえの 浅き眠りや 赤目月
ふん。
正月らしさに欠ける。
気勢があがらないことおびただしい。

兎と亀の寓話になぞらえるテもある。
目覚めれば 亀の背中や 四十路坂
憂さ辛さ 昼寝せしまの びりっけつ
ははは。
自分ながら身につまされる。
だってそうじゃないか。世間の連中を間抜け呼ばわりにしつつ、思い上がって暮らしてきた20代30代を過ぎて、いまのオレはカメにぶっこ抜かれて意気阻喪したウサギそのまんまなんだから。
とはいえ、
やい亀よ 抜くなら抜けと 寝正月
と、開き直るのは可愛いげがない。
負け犬の遠吠え。
引かれ者の小唄。

いっそ前向きにウサギ→飛躍で行くのはどうだろう。
百姓が 飛躍しようと 木の根っこ
ひどいね。
職業差別と厭世呪詛。
弁解の余地なしだ。

因幡の白兎はどうだろう。
鮫の背中を渡って海を渡ろうとしたウサギは、案外正月の題としてふさわしいかもしれない。
荒波の 鮫の背中や 寝正月
……ううむ。
これまた、浮草稼業の恨み言じみてよくない。

最後の手段として、ウサギ類に特有な食糞の習性を詠み込むというテもある。
ちなみにご説明申し上げれば、ウサギ類は、草食動物としては貧弱な消化能力をしか有しておらず、ために自分の糞をもう一度食うことで消化を助けている。
小学館のCD-ROM百科事典にはこうある。
ウサギの奇妙な習性に食糞(シヨクフン)がある。普通にみられる糞と、ねばねばした膜に包まれた糞を交互に排出するが、後者が排出されると、自分の口を肛門(コウモン)に近づけて吸い込み、かまずに飲み込む。この糞を食べさせないようにすると、しだいに貧血症状を呈し、やがて死亡する。これからもわかるように、排出物というよりも餌といえるほどにタンパク質やビタミンB12が多く含まれていて、ウサギの健康維持にたいへん役だっている。
で、以上の生物学的事実を踏まえた上で、句は
短夜の 生計(たつき)の道や 糞食らえ
となる。
ううむ。
呪われているんだろうか、オレは。



12月31日 木曜日 晴れ
大晦日だ。
今夜、おそらく、日本中の少なからぬ数の家族が、互いに気まりの悪い思いを抱きながら、為すところなく向き合っていることだろう。
というのも、彼らは、ひとつのテーブルを囲むにはあまりにもかけはなれた人間たちだからだ。
久しぶりに家族がうちそろったところまでは良い。
1時間や2時間で済むなら、再会も悪い経験ではないかもしれない。
しかしながら、今宵の再会は、深夜に及び、翌日に連なることになっている。
誰がこんなことを望んだのだろう。
首に鈴をつけた猫が集まって、耳をふさぎながらうなずき合うような今宵の会合を誰が一体望んだというのだ?
そもそも、共通の話題があるだろうか。
あるはずもない。
ともに語るべき話題があるようなら、子供たちは家を出なかっただろう。
誰が悪いというのではない。
成人した子供たちとその年老いた親たちには、有効なシナリオが用意されていないのだ。
あらまほしき見本としての、身をまかせるべき典型例が存在しないのだ。

そんな不幸な家族たちのために、わたくしどもの国営放送は紅白歌合戦を用意している。
素晴らしい配慮といわねばならない。
適正な選択が無い場合の次善の選択として小林幸子は歌い、家族が向かい合わないための視線の持って行き場としてアムロは絶唱する。
押し黙った空間を埋める防音パネルのように
あるいは、死刑囚にギロチン台を直視させないための絵屏風のように
ブラウン管は家族の前に横たわっている
素晴らしい気配りだ

「何のつもりなんだろうね、このヒトは」
 と、小林幸子の衣装を見ながら息子は言うかもしれない。
「ああ」
 と、父は答えるかもしれない。
 しかし、何のつもりであるかを問うべき相手は、お互いの目の前に座っているのではないのか?
 父は息子の借金について言いたいことがあるのではないのか?
 息子は父の相も変わらぬ仏頂面に対して、呪いの感情を抱いているのではないのか?

おお、北島三郎が歌っている。
今年ももうすぐ終わりだ。
なにか言い残したことはないだろうか。
なにか大切なことを言うべきではなかったのだろうか。

が そうした迷妄をさえぎるように、和田アキ子が歌いはじめる。
そう。
毎年、こうやって一年が終わるのだ。
何も解決せず
なにひとつ核心に触れぬままに
毎年
居心地の悪い沈黙の中で
ぼくたちの一年は
なしくずしに
行く年来る年にまぎれていくのだ

友よ
嘆くことはない
一年は 始まったり終わったりするものではない
時間はただただ流れて行くもので、
蓄積することはないし 折り重なって物質化することもない
だから 友よ
なにも 恐れることはない
きみの人生は
武田鉄也が暗示するような基礎工事を伴う建設作業ではない
それはおそらく
単に
喪失の過程なのだ
だから 友よ
年越しの蕎麦を飲み込む時
つまらぬ反省をするのは愚かな選択だ
反省は薬味として味わうには苦すぎるし
悔恨とて同じことだ