1998年8月9日 日曜日 晴れ 軽井沢3日目
 北軽井沢からクルマで一時間ほど行ったところにある「湯の丸高原」という高原湿地の保存地区に行った。
 3年前に訪れた時と比べると湿原が大幅に減少している。
 アヤメやショウブが自生していた場所にクマザサが茂り、全体として、平凡な草原の風景に変わりつつある。
 これは、どう解釈すべきなのだろう。
 たとえば、NHKなら、この絵ヅラをどんなふうに処理するだろう。
 誰かを責めるだろうか?
 たとえば、石炭の煙を季節風に乗せてよこす中国の人々とかをか?
 それとも、我が身を振り返って反省をしてみせるだろうか。
 でなければ、教訓を引き出すか。
 自然の有限さとか、開発の波とか、生態系の不可逆性だとか、なんとかかんとか。

 オレは、
 なるほどね。
 と言おう。
 自然は、常に動いている。
 なるほどね。
 論評はなし。
 感想もなし。
 そうだとも、おっしゃる通り、単なる現状の機械的受容だ。
 が、自然の一構成要素に過ぎない身分の者としては、あらゆる事態の変転を宿命として甘受するほかにどうしようもないではないか。
 加害者?
 オレが?
 ははは。
 そんなに思い上がってないよ。あたしは。
 
 帰途、鹿沢温泉の紅葉館という宿で入浴。500円。
 マグネシウム泉ということらしいが、いずれにしろ、何らかの強い成分が溶け込んでいることは間違いなさそうだ。
 昨晩訪れた長寿館という北軽井沢の温泉のおやじによれば
「ここで10日も湯治をすればたいていの病気は治ってしまう」
 ということだが、別に温泉でなくても、10日間仕事を忘れて、寝て食って風呂に入っての生活をすれば、たいていの病気は治ると思う。
 湯に何が含まれているかなんてことは、あんまりたいした問題ではない。

 癒し?
 ふん。
 いやらしい言葉だ。
 癒すとか癒されるとか、傷つくとか傷つけられるとか、日常の出来事のいちいちを、「こころ」の用語に置き換えて話したがる人間は、要するに
「私はもがいています」
 という自己表白をしているに過ぎない。
 しかも、始末におえないことに、その、まったく個人的な自己表白に普遍的な意味があると思い込んでいる。
 困った人たちだ。

「なるほどね」
 と言うことにしよう。
「なるほど、あんたはもがいていて、くるしんでいて、しかも、そのことを大声でわめいている。……で、オレにどうしろって言うんだ?」
   

8月10日 月曜日 晴れ 軽井沢4日目
 正午頃に浅間小屋を辞して帰路につく。
 軽井沢市内は渋滞。
 観光客はどうして同じ行動を繰り返すのだろう?
 彼らは、経験から何も学ばないのだろうか?
 というよりも、メンバーが替わって、毎年新たな阿呆が補充されるということなのだろうか?
 
 いや、一番愚かなのは、毎年同じ道路で、毎年同じ渋滞にハマって、毎年自分以外の観光客を呪っているオレだ。
 4時過ぎに赤羽に到着。
 

8月11日 火曜日 曇り
 午前中に「ビジネスジャンプ」の原稿を脱稿。
 ホームページを訪れてみると、カウンターが900人を超えている。
 更新プレッシャーを感じる。
 しかし、なぜ更新の必要を感じねばならないんだ?
 誰のために?
 お客様のためにか?
 芸人なのか?オレは。

8月12日 水曜日 曇り
 「諸君!」10月号(たぶん)の「うちの秘蔵っ子」というページで、イギー氏を紹介してくれることになって、本日2時より撮影が実施された。
 4ページのグラビアに3点(アップ、見開き<からみの2ショット)、全身像)の写真が掲載される予定。
 このテの「私生活紹介」じみた仕事が来るのは、私が文化人として認知されていることを示しているのだろうか。
 それとも、一般の人から見て、イグアナという生き物がそれだけ珍奇な怪物であるということなのか?
 まあ、どっちでもよろしい。
 いずれにしろ、自慢のペットをひけらかすことができて、なおかつそれが収入に結びついてしまうわけなんだから、こんなに喜ばしいことはない。
 
 カメラマン氏は、メキシコで野生イグアナを撮影した経験もあるということで、さすがに見事な仕事ぶりだった。

 てなわけで、一日機嫌良く過ごしたのであるが、深夜になってちょっと気がかりな電話が入った。
 (↑と、思わせぶりな終わり方で読者を引っ張る……新聞連載小説の手口)
 (↑って、冗談にするような話でもないんだけど)

8月13日 木曜日 曇り一時雨
 「怠け者の節句働き」ということわざ通りに、なぜか、例年、お盆と正月は忙しい。
 おそらく、ライターとしてのオダジマは、「夏休み特別企画」だとか「新年吉例お年玉企画」みたいな、雑誌のとってのバラエティー枠にふさわしいタマになってきているということなのだろう。
 仕方がないといえば、仕方がない。
 確かに、アル中さんとして過ごした十年ほどの間、私は、連載で回すにはリスクの大きい(←〆切がね)ライターではあった。
 とすれば、非レギュラーの企画で起用するほかに方法がない。
 うむ。
 とはいうものの、酒をやめて3年になるというのに、どうしてなのか、私の断酒は、業界の人々に、あんまり認知されていない感じがする。
 大酒のみの多いこの業界では、断酒者は、敗北者ということになるのであろうか?
 それとも、いけないいけないと思いつつ深酒を重ねている人々にとって、断酒者は、神経にさわる存在(プールサイドでネクタイをしてる奴みたいな)なのか?

 ま、自分自身にとってさえ、飲まない自分が、いまだになんだかよそよそしい感じなのであるから、仕方がないのかもしれない。

 泳ぐことをやめた魚や、飛ぶことをあきらめた鳥なら、私の気持ちがわかるだろうか?

 いや、私とて、生きることをやめたわけではない。
 むしろ、実態としては、死ぬことをやめたはずなんだけど。
 
 
8月13日 金曜日 晴れ
 打ち合わせで久しぶりに銀座に行く。
 いつの間にか、並木通りにグッチ、シャネル、ヴィトン、フェンディといったブランドが本店を開いている。
 客もそこそこにはいっている。
 なるほどね。
 

8月15日 土曜日 晴れ
 しばらくぶりに巨人・阪神戦をテレビ観戦したが、一向に面白くない。
 1時間ほどでスイッチを切る。
 サッカーを観るようになって以来、野球には完全に興味をなくしてしまった。
 こんなものに二十年間も夢中になっていたと思うと、自分ながら不思議だ。

 アナウンサーの無駄話。
 解説のオヤジの空疎な説教。
 アップばかりの画像。
 闇雲な伝説化。
 そして、あの休んでばかりのプレイングリズム。

 思うに、野球の「面白さ」は、プレイそのものよりも試合の展開に依存している。
 しかも、その展開の見方は、マスコミだの解説者だのによってよってたかって枠をはめられている。
 「4番」だとか「エース」だとかにまつわる、カビの生えたドラマ――いつまでこんなお話で視聴者を引っ張って行くつもりなんだろう。
 バカみたいだ。  「監督」の「覚悟」と「ベテラン」の「意地」  ふん。
 まるで、出来の悪いドラマだ。
 いや、それどころか、出来の悪いドラマの解説をネタに酒を飲んでいる感情過多の酔っ払いってところだろうか。
 「劇空間プロ野球」
 とは、日テレのプロ野球中継のタイトルだが、「劇空間」という、この品のない造語にすべてが凝縮されている。
 要するに、彼らプロ野球マスコミ関係者は、プレイそのものが元来備えている魅力よりも、各々のプレイの背後にある(というか、彼らがプレイの背景に仮定したり捏造したりする)「劇」の方により高い価値があると思い込んでいるわけだ。

 であるからこそ、プロ野球よりも、明らかにプレイの質の劣る高校野球の方が面白かったりするという逆転も起こり得るのだ。だって、「劇」としては、高校野球の方がより真摯だし、より残酷だし、より一回性の宿命に殉じている分だけ濃度が高いからだ。


 まったく。