10月1日 日曜日 曇り
 運動会。
 ちょっとだけ見に行った。
 撮影はしなかった。
 あれはみっともないから。
 カメラを構えたままの姿勢で走りまわるパパは、まわりが見えていない。
 ファインダーを覗いている人間は、視覚以外のすべての判断力を喪失する。被写体に没入し、自らを見失い、最終的にはシャッターの奴隷になってしまう。
 だから、パパラッチはみっともない。
 自分があんなふうになるのはちょっとかなわない。
 ま、子供の運動会みたいな場所で人目を気にしている方がどうかしているのかもしれないが。

 さてしかし、撮影をしないということになると、何もすることがない。
 世のお父さんたちがデカい一眼レフやらデジタルムービーやらを携えて運動会にやってくるのは、子供の晴れ姿を撮りたいというよりは、退屈をまぎらわすためだったのかもしれない。
 でなくても、運動会は貴重な機会だ。せっかくカメラやビデオを買っても、それらしい撮影機会は滅多に見つかるものではないし、被写体だってなかなか日常の中に転がっているものじゃないわけだから。

 てなわけで、午前中でリタイアしてきた。
 気になる浦和戦もあることだし。
 わが子の運動会より、他人のやるサッカーが気になるのかって?
 そういう質問には答えないよ。
 何かと何かを比べる態度は、多くの場合不適切だからね。
「あなたは夫婦の会話より、雑誌の記事の方が大事なのね」
 とかいった調子の、本来同じ土俵に乗っかりっこないものを比べる設問は、無意味であるばかりでなく、有害だ。
 考えてみてくれよ。
 異種格闘技戦が何を残した? あのアリキックという惨めな国辱的非カミカゼ攻撃の不快な記憶だけじゃないか。
 だから、比較は無効だよ。
 どちらが大事だという問題ではない。いずれに緊急性があるのかという問題でもない。
 人はその時々に気が向いたことをするものだという、それだけの話だ。

 家に帰って、テレビ中継がないので、チャットの速報で 新潟VS浦和戦 を追う。
 2-4の逆転負け。
 呆然自失。
 運動会?
 それがどうした。
 
 ……引き続き、 札幌VS大分戦 をチャット観戦。
 昨日の敵である札幌を応援している自分がいる。
「エメちゃん、お願い」
 昨日のエメ公はエメちゃんに昇格している。
 前半は、1-1のまま終了。しかも、札幌は退場者を出して10人。
「エメ様、お願いします」
 ついにエメ様に昇格。
 ……と、おお、バンちゃんが決めてくれた。
 逃げてくれえ。
 結果は、2−1で札幌が勝ってくれた。ありがとう岡ちゃん。ありがとうバンちゃん。

※さるご婦人(匿名希望)との会話
 あれこれと世間話をするうちに新聞の話題が出て、私が新聞を定期購読していないことが判明する。と、先方はかなり露骨に驚く。
「ものを書く人が……新聞をとってないんですか?」
「ええ。まあ、邪魔になるだけですし」
「でも、それじゃ世の中の出来事が……」
「いや、インターネットでほとんどの記事は読めますから」
「でも……」
 どうやら、インターネットに不信感を抱いているご様子。
「なんだか、インターネットでヘンなものが流通しているとか、そういうニュースもありますよねえ」
 あーあ、面倒くさい。


 どう説明しても、このヒトのアタマの中にある「新聞を毎日読むのがまっとうな社会人である」という固定観念を崩すことはできそうにない。しかも、この種の、新聞を絶対視しているタイプの教条主義者は、必ずやインターネットに不信感を抱いている。この偏見も、簡単には除去できない。ムキになって一世一代の大演説をカマせば、あるいは多少の効果は上がるかもしれないが、そんな泥んこ仕事を引き受けて何になる? で、
「まあ、そうですね」
 と簡単に引き下がっておく。触らぬバカにたたりなし、君子お屋敷に近寄らず、朱に交われば浦和レッズ、だ。

 インターネットについては、ほかならぬ新聞がいまだにネガティブな記事ばかり載せているわけなんだから、新聞読者が不信感を抱くの当然といえば当然なのだ。
「新聞の記事なんかで世の中の出来事が分かると思っているんだとしたら、あなたは本格的なバカですよ」
 とは言わなかった。
 言うだけ無駄だから。
 ……って、こういう言い方は良くないですね。
 つまり、バカが新聞を読むとますますバカになる……あ、ますます良くないか。
 ともあれ、新聞が与える知識は、バカのアタマからバカの自覚を奪う。新聞を読んだバカは、自分が利口になったと勘違いする。
 手におえないな。
 新聞が与える知識そのものは、平板なダイジェストに過ぎない。5W1Hの枠にハメこんだ図式的なデータと紋切り型の要約。前例踏襲の解釈。ガキの積み木みたいな演繹。
 いや、それだけならまだ良いのだ。新聞が提供する情報は、時には「楢崎、血染めのファインセーブ」式の情緒に濁った(澄んだ情緒があるだろうか?)ストーリーだったりする。で、そういう情報をアタマいっぱいに詰め込んで、新聞読者は利口になった気持ちになる。
 始末に負えない。 
 新聞は、世界を要約する。
 どういうふうに要約するのかって?
 バカが鵜呑みにしやすいサイズに、だ。
 そして、当然のことながら、水鳥のノドを通りやすいように縮小・変形された情報は、記事としては優れていても、モトの事実と比べると微妙にカドが取れていたりして、真実を反映していない。
 いや、新聞が無意味だというのではない。自前の読解力とマトモな批判能力を持った人間が読むのであれば、新聞記事の情報は充分な価値を持っている。それはわかっている。要約そのものがいけないと言いたいのでもない。すべてを伝えることができない以上、出来事はダイジェストされなければならない。わかっている。
 しかしながら、ある種の人々は、ダイジェストされた事実の背景をまったく見ようとしない。
 で、鵜呑みにする。
 ん?
 オレの言っていることは、イヤミだろうか?
 愚民批判に聞こえるだろうか?
 ニシベのジジイみたいだろうか。
 そう聞こえたなら撤回する。
 ごめんなさい。
 愚民という言葉を使う人間は、愚民以下。
 肝に銘じておこう。

 思うに、市民と愚民は、実は同じ人たちだ。
 自称と他称の違いに過ぎない。
「われわれ市民は」と言っている人たちと、「彼ら愚民は」と名指しにされる人たちは、実はまったく同じ集合に属しているわけで、つまりは慣用句の問題に過ぎないのだ。
 いずれにしても人間を集合名詞として扱う時には、なんらかの責任転嫁が行われている。

 ところで、フェミニズムの人たちはどうしてこの「責任転嫁」という言葉を問題にしないのだろう。
 責任は嫁に行ったりするものなのか?
 嫁に出せばそれで親のつとめはおしまいなのか?
 いや、そんなことより、そもそも、嫁が家に従属する存在だという合意がなければ、この言葉は成立しないのである。
 そういうことで良いのか?、
 フェミさんたちは、嫁になんか行かないから、関係無いってことか?
 いかん。ハナシがバラけてきた。
 黙って寝よう。
 

10月2日 月曜日 雨
 一日中雨。
 午前10時に起きて、10時半から夕方の5時過ぎまで昼寝。
 そのあとは、さすがに眠れないので横になってじっとしていた。
 怠けていたのではない。
 自分を取り戻していたのだ。
 はやりの言葉でいえば「癒し」ってやつだ。
 浦和レッズの状況は別にしても、時々、こういうふうにして寝て過ごす一日がどうしても必要になる。
 甘えている?
 そうかもしれない。
 が、ほかならぬ自分を甘やかしてどこがいけないんだ?
 自分を苛めたって、なんにもならないじゃないか。
 向上心?
 どこに向かって上がって行くんだ?
 タコじゃあるまいし。

 何を勘違いしているのか、「T塚ヨットスクールを支援(私怨 by IME98)する会」だとかいうところから、時々メールが届く。
 ふむ。
 T塚校長は、朝から寝ている男であるオレみたいな人間の根性を叩き直したいのであろう。
 でも、オレとしては、そうそう簡単に叩かれ直されてあげるわけにもいかないのだよ。
 なにしろ、オレの弱さに筋金がはいってるんだから。

 なるほど、T塚さんの言う通り、ある種の人間は、逆境に立てば立つほど内面的な強さを発揮するのであろう。
 厳しい体験や極限状況が、人間の可能性を広げるということも事実なのだろう。
 でも、それもこれも、結局は人それぞれだ。
 厳しさに耐えられない人間もいるし、逆境に萎縮するだけの人間もいる。
 同じ人間であっても、タイミング次第では、まったく別の反応をする。
 ある状況下では、人は、睡眠や引きこもりでしか癒されない。
 ……と、こんな簡単なことを、マッチョの連中は決して理解しない。
 
 T塚校長のこわばった表情を見ればわかる。
 ああいう人は、自分と違ったタイプの人間を理解することができない。仮に理解したとしても、彼は決して容認しない。
 おそらく、T塚校長のメソッドは、それなりの成果を上げているのだと思う。
 うまいタイミングで自分を追い込むことを知った子供は、その体験を糧に、自信を取り戻すものなのかもしれない。で、彼は、その自信をきっかけに生き方の方向を変えるかもしれない。
 が、そうならない人間もいる。弱い人間は依然として弱い。
 T塚校長の真意は、もしかしたら、弱い人間を叩き直すことよりも、むしろ彼らを踏み潰すことにあるのかもしれない。
 麦踏みと同じだ。
 麦踏みは、あれは、弱い麦を鍛えるための作業ではない。麦踏の真の狙いは、弱い麦を芽のうちに抹殺することによって、麦畑全体の強さの平均値を上げることだ。

 T塚さんはともかく、そのT塚ヨットスクールの支援者であり、T塚ヨットスクールを引き合いに出した教育論で売っているI原都知事の真意が、弱い麦の撲滅にあることだけは間違いない。というよりも、I原さんは、T塚校長をスパルタ学校の鬼寮長みたいな役割として利用しようとしているのだ。
 殺虫剤パーソナリティー。
 憎まれ役の軍曹。
 いや、単に使い捨ての軍手か?
 自ら手を汚さないためのゴム手袋。おお、かわいそうに、T塚さんは、知事が汚いものを触る時にはめる軍手だったのだ。
 I原さんのアタマの中では、この世界には生まれつき優れた人間と、劣った人間がいることになっている。そして、劣った人間は、優れた人間に支配されねばならず、弱い人間は淘汰されなければならない。
 ちなみに言えば、この思想(ってほどのもんじゃないけど)は、彼自身が、強く、美しい、選ばれた優れた人間であるという自覚から生まれている。
 選民思想ってやつだ。
 であるから、弱い人間を助けるのは、自然の摂理に反しているわけだ。
 というよりも、石原のような男は、弱い人間に手を差し伸べることを偽善としか思っていない。
 なぜかって?
 彼が弱い人間を助ける場合、それはまごうかたなき偽善だからだ。
 つまり、生まれつき善心を持っていない人間にとっては、あらゆる善が偽善に見えるって、それだけのハナシなのだよ。
 あるいは、I原氏自身は、
「オレは心優しい人間ではないが、少なくとも偽善者ではない」
「オレは確かに無遠慮な男かもしれないが、ともかく正直な人間ではあるのだ」
 ぐらいの自覚をもって自ら認じているのかもしれない。
 違うよ、先生。
 あんたは、単に邪悪なだけだ。
 ごく当たり前な善心すら持ち合わせていないあんたの目には、自然な善心を表に出しているだけの人間が偽善者に見えるのだろう。まあ、その気持ちは、それはわからないでもない。
 わかってあげたついでに、百歩譲って、人が善人たらんと努める態度の中には、一定量の偽善が含まれているということを認めてあげても良い。確かに、まっさらな状態のおのれの状態を超えて、より善であろうとするのは、そりゃ偽善の一種ではあるんだろうから。
 でも、慎ちゃん、考えてみてくれよ。
 一方には、人々が大いに偽善を発揮して、互いにいたわりあって暮らしている大甘な世界がある。
 で、もう一方には、おのれの欲心や暴力衝動に正直であることを第一義として、殺伐ながらも生一本な弱肉強食の秩序を形成している世界がある。
 どっちが良いんだろう。
 えっ? 後者だって?
 なるほどね。あんたは徹頭徹尾自分が勝者であるという想定しか思い浮かばない男なんだな。
 
 曽野綾子も同じだ。
 彼女もまた偽善を嫌っている。なにかにつけて人間の邪悪さを強調しては、世間の甘さを指摘している。為政者の偽善を抉り出し、教育者の無責任を指弾し、迷える仔羊に個性を認める論調の愚かさを嘲笑し、神の絶対的優位から見た人間の愚かさと弱さをこれでもかこれでもかと強調してやまない。
 でも、邪悪なのは、人間一般じゃなくって、曽野さん、あんただよ。
 曽野先生は、人間の善性をまったく信じない。
 というよりも、彼女にとって善なるもののすべてはキリストに由来していなければならないのであって、人間にうちに善が内在しているという考え方自体が、神への冒涜ということになるのであろう。
 まったく。
 キリストも罪な野郎だよ。
 戦前生まれの高慢ちきなお嬢が、自分の冷血を冷徹ぐらいに勘違いして、自己正当化の権化みたいなババアに化けたのは、あんたのせいだとオレは思うぜ。

 I原さんや曽野さんのような勝者のパーソナリティーは、あれは、どこから生まれてくるのであろう。
 自信? 実績? あるいは克己心か?
 だったら良いのだが、彼らのこの血も涙もないスパルタンにして無慈悲な、花も実もない高圧的かつ工場長の生産管理思想そのままの人間観は、むしろ、過大な自己防衛本能や、虚栄、あるいは哀れな自己崩壊から生じているのかもしれない。
 事実、曽野先生は、自分が崩壊家庭の出身であることを繰り返し強調している(「私は家庭内暴力を受けて育った。子供の私はそのような暴力を肯定するいかなるモチベーションもなかった。しかし私はその火宅のような家庭のおかげで、子供の時から人生を深く見るようになった」だとさ――8月24日産経新聞)。
 おそらく、彼女自身は、幼い自分を圧迫していた過酷な状況が自分の精神を鍛えたぐらいに思っているのであろう。
 が、彼女は、単に壊されたのである。
 で、復讐をしているわけだ。
 だからこそ、曽野先生は、齢七十に届かんとする現在に至ってなお、甘っちょろい家庭人たちがお互いにベタベタして暮らしている姿を見ることに、生理的な嫌悪感を覚えずにはいられない。
 哀れな人だ。

 ともあれ、弱い人間は弱い。それで良いではないか。
 弱い人間を鍛え直しすことが可能なのだとしても、私はその種の人格改造にはあんまり賛成できない。
 なぜって、強い人格を得ることが、その人間に素敵な人生をもたらすのかどうかは、最後までわからないからだ。

 引っ込み思案でおとなしかった男が、ある時期から手のひらを返したように前向きな自信家に変身する場合がある。私も何人かそういう人間を見たことがある。
 自己啓発セミナーにでも通ったのか、単に窮鼠猫を噛むの実写版なのか、理由は知らない。
 とにかく、彼らは、過剰なばかりに自信満々に見える。
 で、私の目には、たとえば、アムウェイのディストリビューターみたいな人たちの自信は、やっぱり薄気味の悪いものに見えたわけです。
 不自然だからだね。
 イヤなマッチョタイプには、この手合いが多い。
 自信といえば言えないこともないのだろうが、むしろ自己肥大、自我狂、誇大妄想と呼びたい種類の行動パターンだ。鼻持ちならない無慈悲な行動家。「俺の空」みたいなセルフイメージ。どっちにしても、オレはつきあいたくないな。

 週刊誌の記事によれば、つい先日自殺した日債銀の社長は、立派な人だった。
 自分を甘やかすことをしない人だった。
 T塚先生なら、なんとかできたのだろうか。
 たぶん、どうにもなるまい。
 T塚先生にとって、自分と違う考え方をする人間は、すべて敗北者なんだろうから。
 

10月3日 火曜日 雨のち晴れ
 巣鴨。
 浦和レッズは、横山総監督が指揮を採ることになった。

 絶句。

 たとえば、森総理がこのまま無能の一本槍でサメの一念を貫いて、いよいよどうにもならない事態に立ち至ったとして、だからっていまさら中曽根康弘の再出馬がまかりとおるだろうか?
 自民党とてそこまでは腐っていまい。

 いや、この場合、中曽根翁を例に出すのは失礼かもしれない。
 このたびの浦和の人事は、たとえていうなら、「片山内閣の迷走を受けて巣鴨プリズンから東條英樹を引っ張り出してきた」ぐらい暴挙に相当する。
 そもそも、A級戦犯が巣鴨プリズンでなく、GMにおさまっていたことがどうかしていたのだ。
 巣鴨には、三菱養和スポーツクラブという三菱系の組織がある。
 横山さんは、そこで体育館の床磨きでもやっているべきだったのだと思う。
 
 

10月4日 水曜日 曇り
 午後二時。赤羽で打ちあわせ。
 このWEBページを本にできないかという相談。
 うむ。
 近々アンケートを集めることにしよう。

※ドキュンの系譜

 関西のお笑い芸人には、一定のライフサイクルみたいなものがある。非行→克己→改心→成功→後進への助言、みたいな。
 紳介、ダウンタウン、ロンドンブーツ、辰吉丈一郎(←お笑いじゃないけど)、薬師寺などなど。それぞれ、年齢と立場に沿った役割を演じている。
 バカみたいだ。
 関西の不良に限った話ではないが、ドキュンは、ある年齢段階に達すると手のひらを返したみたいに保守化する。
 犯罪者すれすれのパンクスから、説教垂れの人情オヤジへの露骨な変貌。
 通過儀礼としての反体制期間を終えると、ウソのような体制擁護派になる。
 扱いやすい人たちだ。
 
ball20.gif JOMOカップ

 小野伸二は出場せず。
 まあ、1週間前に120分、3日前に90分の試合をこなしているわけだからね。
 トルシエの温情と思うことにしよう。
 試合の感想?
 退屈な試合でした。
 

10月5日 木曜日 晴れ
 午前中、原稿を一本書き上げて、昼から和光市で取材。
 帰りは午後6時になった。
 8時前にもう一本原稿を上げて、それから銭湯。
 よく働いた。
 自分をほめてあげたい。
 いや、自分に皮肉を言うのはやめよう。

※田代まさし盗撮

 バカな事件だなあ。
「何も素人のスカートの中なんか撮らないでも、あれだけの有名人なら女には不自由しないだろうに」
 と思うかもしれない。ところがどっこい、人間というのは手に入らないものがほしいようにできている。
 ……ってな調子で、欲望の不可思議について書くつもりだったのだが、ついさきほど大石先生のHPを覗いてみたところ、私が書くつもりでいたことがほぼそのまんま書いてある。
 先を越されました。
 なので、書きません。
 ともあれ、いま一番欲しいものが30ギガのハードディスクだったりする私は、自分で思っているよりは幸福なのであろう。
 ってことで、イラストをアップしておきます。
 


10月6日 金曜日 晴れ
 疲れた。

 正直な話をしよう
 そのために、まず、きみを「きみ」と呼ぶことにする
 変だろうか?
 うん、変だよね、わかっている
 他人行儀だ
 でも、仕方がないんだよ
 他人なんだから
 そこから出発しないと正直な話はできない
 ぼくのことは「ぼく」と言うことにする
 いつも「私」と言っているのは、気取っているからだ
 それが悪いってわけじゃない
 むしろ、気取ることはとても大切なことだ
 というのも、ぼくが気取っていることは、ぼくが人々や世界に対して常に真摯であろうとしていることの証でもあるわけだから
 つまり、ぼくは、「私」である限りにおいて、公平で冷静で理知的な男でありたいと願っているわけで、大筋から言ってまじめな男なのだよ
 うん、「オレ」と言う時もあるね
 そういう時、たぶんぼくは強がっている
 タフで非情な男であることを狙ったイメージ戦略だ
 似合うかどうかは別として、ぼくはタフでありたいと願っている
 非情になれたら素敵だろうとも思っている
 いずれにしても、正直な態度じゃない
 「オレ」にしても「私」にしても、それはぼくじゃない
 照れ隠しみたいなものだ
 それだけ、ぼくにとってぼくは恥ずかしい存在なんだな
 なぜって、ぼくという一人称で語りはじめたが最後、クソ甘ったれた自己憐憫やら、ひがみやら、いやらしく計算された媚態やらといったおよそみっともない情緒的な泥水がとめどもなくあふれ出てくるに違いないんだから
 で、何を言いたかったのかって?
 そりゃ言えないよ
 ん? 正直じゃない?
 正直に言ってるじゃないか
 何も言えないって
 正直な話は不正直なレトリックでしか表現できない
 それぐらいのことは、きみだってわかってるはずだろ?


10月7日 土曜日 晴れ
ball20.gif 浦和VS仙台

 ホームでの試合なのにテレビ中継がない。
 テレビ埼玉は野球をやっている。ダイエーがさっさと優勝を決めていればこんなこともなかったのだろうが。
 というわけで、ネットで試合経過を監視。力になれないのがもどかしい。って、試合を観たからって別に選手の力になれるわけじゃないけど。
 結果は、延長戦の末山田ノブヒサのゴールが決まって1-0のVゴール勝ち。
 ネットで確認した限りでは、圧倒的に押し気味の試合だったようだ。
 今夜零時半からテレビ埼玉で録画中継があるようなので確認してみよう。