1月1日火曜日 晴れ
 NHK(BS1)のワールドカップ特番を横目で眺めているうちになんとなく年明け。
 ふさわしいことだと思う。年末と年始がのんべんだらりのひとつながりになっていたからといって、別段、誰に恥じることでもない。
 なに? けじめ?
「くそくらえ」と言っておこう。
 百歩譲って生活にけじめが必要なのだとして、当方のけじめは官製カレンダーの行き暮れとは無縁だ。無論、民放女子アナウンサーの晴れ着姿や正月バラエティーの空騒ぎに影響されるテのものでもない。
 というよりも正月があるのなら邪月もあるはずで、われら偏屈者の新年は正邪正誤の後ろ半分に……
 ……いやつまり、気がついたら年が明けていたわけです。
 タバコもすでに吸ってしまった。
 ことあらためて禁煙をはじめる気があったわけでもないのですが、無自覚に火をつけた一本が既に2002年の最初の一服になってしまっていたわけで、そうなってみるとなんだかやっぱり釈然としない。で、開き直って邪月の誤月のと屁理屈をこねてみたりはしたものの、年明けの気持ち新たなるべき最初の文章の冒頭がいきなり「くそくらえ」であったりするのはいかがなものかと、開き直ったそばから反省をはじめている次第で、今年もまた……

 昨晩、つまり大晦日の夜、BS7チャンネルで放映していた'94年アメリカ大会のルーマニアVSスウェーデン戦を観ながら衛星放送の恩寵をことほいでいると、その私の賛嘆の念に呼応するかのようにNHKの集金がやってきた。
 集金人はこのホームページを観ているのだろうか?
 オレがサッカー漬けのBSヘビーウォッチャーであることを見抜いていて、それであえてこの時間を選んだということなのか?
 見事なタイミングだった。
 ところがその集金人の爺さんが
「こんな時間にホントすみませんが……」
 と、えらく恐縮してみせるものだから、いきおいこっちとしてもつけこまざるを得ない。で
「あ、えーと、いま、誰もいないんですが」
 などと、奇妙なことを言う。
「誰もいない」と言っている当人であるオレは誰なんだ?
 留守番の無能力者か? いや、遠くもないわけだが。
 さてしかし
「あ、そうですか……そうですよね。大晦日ですからね」
 と、爺さんは意外にも簡単に納得する。
「すみませんね」
「また出直してきます」
「すみませんねえ」
 と、そうやって2001年は終わった。誰も責任能力を持つ者のいない部屋の中で静かに暮れていったわけだ。くだらない年だった。二度と来ないでほしい。って来るわけないんだよな、頼んでも。

 目が覚めると年賀状がけっこう来ている。
 年賀欠礼のハガキを出さなかったせいだ。
 こういう場合、やはり寒中見舞いみたいなものを出して事情を説明すべきなのだろうか。
 でも、「実は昨年の4月に父が亡くなりまして」てな話をいまさら持ち出すのは、先方を恐縮させるだけという気もする。
 むしろ知らん顔をして当たり前な年賀状の返事を出した方が良いのかもしれない。

 うーむ。面倒だなあ。
 やっぱり返事を出しそびれるの一手だろうか。例年通りに。
 で、会った人には
「いやあ、すみません」
 で済ませる。
「すみませんですむと思ってるのか?」
「すみません」
 永久ループ。ははは。
 会わなかった人には?
 ま、縁が無かったということですね。
 一期一会。
 さよならだけが人生さってことで。

 天皇杯決勝戦:清水エスパルスVSセレッソ大阪
 3-2でエスパルスのVゴール勝ち。まあ順当な結果なのだろう。
 試合展開自体は白熱していたが、なんだかバタバタしているだけに見えた。
 粗雑なプレイと言っては言い過ぎか?
 やはり他人の試合はいまひとつ真剣に観られなかったということなのかもしれない。
 レッズに出てほしかった。
 29日の準決勝が悔やまれる。
 

1月2日水曜日 晴れ
 昼過ぎに起床。実家に顔出し。
 お年玉、雑煮、換気扇の下で吸う煙草、横浜、たそがれ、バカなテレビ。
 一日中何かを食べていたみたいな感じで体調がおかしい。本格のおせち料理は供されなかった(誰も食べないからね)ものの、それでも食卓には色々と皿が並んでいてそれらのいちいちがプレッシャーになる。
 正月はいつも同じだ。毎年体調を崩す。
 おそらく私はこの種の伝統文化が苦手なのだ。
 いや、伝統文化がどうしたといった大げさな話ではない。手のこんだ料理や大勢で囲む食卓が苦手だというだけのことで、さらにはっきり言うなら、結局のところ私は血族イベントが苦手なのだ。
 親戚と呼ばれる人々に会う機会があると、それだけで気持ちが沈む。相手がイヤな野郎であるとかそういうことではない。イヤな人間であれそうでないのであれ、親戚づきあいというだけでなんだか気がふさぐのだ。うん、わかっている。これはこれで十分に病的なことだ。
 あるいは私に限らず、私たちの世代の者は核家族以上の単位で過ごす休暇に慣れていないのかもしれない。というよりも、家族という擬制自体が既に無効化しているだろうか。


1月3日木曜日 晴れ
 昼過ぎに起床。
 テレビをつける。
 一通りザッピングして消す。
 しばらくしてまたテレビをつける。
 一通りザッピングして、また消す。
 オレは何を観たいのだろう。
 自分が何を観たくないのかを確認したいだけなのか?
 いずれにしろ、サッカーが無いとどうにもならない。
 特にスペシャル枠のバラエティーは番組全体が罰ゲームじみている。
 セレブの連中のバカ騒ぎを眺めるパンピーという図式。
 つまり視聴者であるオレは出演者より一段地位が低いわけだ。
 イヤな関係だ。
 オリンピックのメダリストやプロ野球選手が引退後にタレントを目指す風潮も不快だ。
 彼らはスポーツ選手からタレントになったことでステップアップした気になっていたりする。
 一流スポーツ選手から二流タレントになり下がったにもかかわらず。
 彼らの中では、
一流タレント>二流タレント>一流スポーツ選手
 という不等式が成り立っている。おい。
 スポーツで一流になるということは、タレントとしての知名度を得るための手段に過ぎないということなのか?
 ってことはつまりデーブ大久保のバッティングやサダオカがピッチングは、タレント志望のねえちゃんの水着姿と同種の売名行為に過ぎなかったってことか?
 
 バラエティー番組の出演者が誰も彼も威張り散らすようになったのはいったいいつの頃からのことだろう。
 どういうわけで彼らはあんなに偉そうなんだ?
 プライム枠の番組に出演している彼らがセレブリティ意識を抱くということころまではわかる。それはある意味当然の反応だ。
 わからないのは、彼らが視聴者に向けて有名人の驕りをむき出しにしてみせるその理由だ。
 なんだか悪趣味の成金みたいだぞ。
 少なくとも10年前はこうではなかった。
 昔は、たとえば大物タレントが駆け出しタレントを小突き回す姿を放映するようなことはなんとなくはばかられていた。
 というのも、有名タレントが無名タレントより偉いという事実をナマの形で認めてしまうことは、出演者が視聴者より偉い(だって、知名度という点では、視聴者はゼロだから)と言っているのと同じことになるはずだからだ。
 現在では、誰がレギュラーを何本持っていて凄いであるとか、誰が誰より格が上だとか下だとか、誰が誰それのグループの番頭格であるとかないとかいった会話がトーク番組の主要な話題になっていたりする。
 あさましいとは思わないのだろうか。
 
 発見:バカが和服を着るとバカさが際立つ。
 和服の着用はできれば免許制にしてほしい。
 もちろんオレは和服なんか金輪際着ない。

 寝よう。

1月4日金曜日 晴れ
 年賀状の到来が一段落したところであらためて数えなおしてみると、やはり例年より数が少ない。義理がらみの数十枚はどうでも良いとして、賀状を介しての近況報告のみでつながっている知り合い(実際のところ最も親しい人々はこのカテゴリーの中にいる)からの便りが届いていないのがさびしい。年賀状のようなものは、むしろ身内に不幸があった人間にこそ届けられてしかるべきだと思うのだが。
 賀状交換の慣習は、多くの場合、人間関係につまらぬ尾鰭(ものほしげな利害関係や前近代的な身分関係)を付加する効果しか持っていない。
 その年賀状に良いところがあるのだとすれば、容易に会う機会を持てずにいる友人同士が定期的な近況報告を交わせるという一点に尽きる。
 ところが、この国にわだかまっている儒教由来の不潔な儀礼感覚は、親しい間柄にある者同士が最も緊密に互いを気遣うべき時、つまり一方(または双方)の近親者に不幸があった際にあえて連絡を怠る愚挙を以って慎みとしている。バカみたいだ。
 私自身の事情について言うなら、父親が急逝したからといって特に落胆の淵に打ち沈んでいるわけでもないが、こういう時に遠巻きにするのは他人のすることであって親しい友の態度ではないとは思っている。

 仮に親しい友人の嫁さんなり子供なりが急死したら、私はせめて年賀状の余白に「気を落とすな」ぐらいのことは書いてやりたいと思う。逆に、自分の身内に不幸があった翌年の正月には、心配しているであろう友人に
「まあ、なんとか元気でやってるよ」なり
「変に気を使わずに、気が向いたら遊びに来てくれ」
 ぐらいのメッセージを送りたいものだと思う。そういうちょっとした一言を運ぶことができないのだとしたら、あの紋切り型のカードには何の取り柄もない。

 儒教で言う「孝」は、近親者(特に尊属)の死に遭遇した者に対して、「実も世も無く憔悴すること」を求めている。であるからわれらがキムジョンイル同志は政治空白をものともせず、3年のながきにわたる服喪の時を過ごし、ママンが死んだ日に女遊びをしたムルソー君はアラビア人に射殺されねばならなかった。バカみたいだ。
 いや、身内の死を悲しむのがいけないというのではない。それは人間の感情としてきわめて自然ななりゆきだ。が、「孝」のポイントは、死別の悲しみを自然な感情とはかけはなれた一種の儀礼として定式化しているところにある。つまり、悲しみは「義務」であり、それ以上に「形式」なのだ。
 
 ってことで、返事は出しませんが。年賀状を下さった皆様、あけましておめでとうございます。


1月5日 土曜日

 吉本興業が「明日があるさ」を映画化するんだそうだ。
 なるほどね。
 と来て、最後の仕上げは映画化ってわけだ。
 コケてほしいなあ。
 ぜひ。

 バブルの頃に一世を風靡した言葉に「メディアミックス」というのがあったが、この物件の場合、実態はむしろ同じ頃の流行語である「丸投げ」に近いように思う。結局のところ、企画、キャスティングからクライアント対策にいたるまでのすべてが一芸能プロダクションに委ねられている。おそらくはさまざまな局面でギャラやら制作費のキックバックが発生しているに違いない。
 今後、多チャンネル化の進展にあわせて、この手の「コンテンツの空洞化」が、ますます常態化して行くのだと思うとアタマが痛い。
 
 要するに、土建屋にとって公共事業が利権であるのと同じように、メディアにとってはコンテンツが利権になっていると、そういうことだ。で、利権があれば当然ピラミッドができる。


 ううむ。イソギンチャクとクマノミの共生関係みたいなものか。いや、むしろ草原のフンコロガシを思い浮かべるべきなのかもしれない。もちろん、この場合、コンテンツはシマウマのクソということになるが、オレら視聴者はクソを分解するバクテリアだろうか? メディアがメッセージなのだとすると、その内容は「クソクラエ」ってことか? 上等じゃねえか。


 第一、こんなチンケな業界ネタ(吉本が「明日があるさ」を映画化へ)がデカい見出しを獲得していること自体おかしくないか?
 ん? おかしくない。
 そうかなあ。
 いや、誰もおかしいと思わないのなら私がおかしいのだろう。
 そう、ゼネコンピラミッドだ利権構造だ癒着だとそんなにデカい風呂敷を広げて考えることもでもないのだ。
 誰も真摯にモノを創ろうとしない不況の時代にあって、業界の人間がそろいもそろってヒット作の後追いに終始している、と、それだけの話なんだから。
 で、二番煎じの二度ネタが幅をきかせ、企画キャスティングからギャランティーにいたるまでのエンターテインメントの果実は残らず寡占業者たるヨシモト一派の手中におさまる。
 勝手にしろ、だ。
 私はテレビのお笑いがどうなろうがかまわない。どこのタレント事務所が大きくなろうが知ったことではないし、中高生の世界観がナニワのヤンキー予備軍そのまんまの春団治マッチョイズムに汚染されたところで痛くも痒くもない。
 が、関西弁の蔓延だけはちょっと困る。
 イントネーションやアクセントの問題ではない。ボキャブラリーの話をしているのでもない。
 私は関西弁が前提としている人間関係のあり方が気持ち悪いと、そのことを言おうとしている。
 具体的に言うと、あらかじめ話し手と聞き手の間でお約束のコール&レスポンスを用意しておくタイプの会話前進手法がどうにも不快なのだ。
 ちなみにここで言う「コールアンドレスポンス」は関西人に言わせれば「ボケと突っ込み」だ。
 ふん。
「ボケと突っ込み」
 いやな言葉だ。
 いや、上方の芸人さんたちの間のテクニカルタームである限りにおいては別にかまわないのだ。「つかみ」でも「くすぐり」でも、「ボケ」でも、好きなように笑いを分析すれば良いし、吉本のプロの皆さんがそれで他人を笑わせられると思っているのならその方向で好きなように芸を磨いておればよい。
 でもそれはそれとして、「キャラがかぶる」だの「ボケがぬるい」だのといった芸人用語を一般人が使っている昨今の風潮はどういうものなんだろう。少なくともオレは不快だぞ。
 でなくても、会話を「ボケ」と「突っ込み」に分けて考える考え方の裏には、会話を交わす人間同士の間に支配隷属関係を設定せずにはおかないなんとも湿っぽい何かがあるような気がするぞ。ってことは、アレだ。大阪弁というのは、ありゃ一種の言語暴力なわけだ。
 言い過ぎか?
 うん、言い過ぎかもしれない。
 本当のことを言おう。
 私は二十年ほど前、しばらく大阪に住んでいたことがある。
 で、約半年で逃げ帰ってきたわけなのだが、その理由は、実は私のジョークが大阪の地ではまるでウケなかったからなのだ。
 というのも、冗談がウケるかどうかは、当時の私にとって死活問題だった(いまでもそうだけど)のだからね。
 そう、私のジョークは、あらゆる場面で、まったくウケなかった。で、以来、大阪の言葉全般に対してトラウマみたいなものをかかえているというわけです。
「どや大阪には慣れたか?」
「ええ、まあ」
「どや? 大阪は?」
「いいトコですよね。大阪人さえいなければ」
「……」
 誰も笑わなかった。
 おそらく、このジョークを大阪でウケるネタに改造するためには、もう少しまわりくどい展開をしないといけない。
「どや? 大阪は?」
「最高ですよ」
「さよか?」
「そりゃあもう食いものはうまいし、物価は安いし、道はわかりやすいし……でも、強いていえばひとつだけなじめないものがあるんですけど」
「なんや?」
「何だと思います?」
「わかった、あれや。電車のドアに貼ってあるゆびづめ注意のシールや」
「ちゃうちゃう、関東のヒトはうどんの汁の薄いのんが堪忍ならんのや。な、そやな。うどんが田んぼの中で死んでるメメズみたいに見えてかなわんっちゅうんやろ?」
「……ちょっとちがいます」
「あほか。こちらのおヒトは東京から来はったんやで。田んぼなんてみたことあるもんかい。米は工場で作ってはると思うてんのやから」
「なんや? 言うてみい。怒らんから」
「ヒント出せや。カタチのあるモノか、それとも習慣とかニオイみたいなもんか?」
「うーん。両方かなあ。カタチはあるけど、ニオイもありますからね。かなりキツいのが」
「ババか?」
「アホかオノレは。関東のヒトにそないなこと言うてもわかるわけないやろが。ちゃんとウンコさんと言い」
「は? ウンコにさんをつけるんですか?」
「あったり前や。さいぜんまでオノレの一部だったんやで。さんぐらいつけんでどうする」
「そやそや。ワシらはあんたら関東もんと違って別れたその日から他人でございますて、そういう冷たいマネはようせんのじゃい」
「……はあ」
「で、なんなんや? そのジブンの言う大阪でなじめんものちゅうのは」
「怒りませんか?」
「返事によっては怒るで」
「大阪人とか言うたらシバき倒すで」
「……」
「なんや。黙ってたらわからんやないか」
「……でも、あの……先に言われちゃったんで」
「ん? ……こら、われぇ、言われちゃったって、なんやそれは。大阪人のことか?」
「……ええ、まあ」
「はははは。面白いでこの兄ちゃん。シレっとした顔でよう言うわ」
「ほほう、久しぶりに笑かせてもらったわ。そうか、兄ちゃん大阪人が嫌いか」
「……っていうか、ナマの大阪人ははじめてなもんで」
「よっしゃ。今日はじっくり飲もやないか。な、兄ちゃん。ナマの大阪人をじっくり味あわせたるわ」
「そやそや兄ちゃん。それからな、ええか、教えとくぞ。大阪ではな。関東もんをサカナに飲む酒がいっちゃん上等ってことにになっとるんや」
「……ってことは、サカナのボクは釣り針を飲んだわけですね?」
「はっはっは。兄ちゃん、気に入ったで。あんたおもろいわ」
 つまり、大阪人を前にした関東の人間は、面白いことを言ってはいけないのである。カタブツのイナカモノのシャレのわからないアヅマオトコみたいなキャラを演じるべきなのだ。笑わせるとしたら、さんざんにいじり倒された最後に、一言ポツリとつぶやくところにしかポイントがない。そのピンポイントをとらえられないようではまだまだ在阪東京人として修行が足りないってことだ。
 ちなみに「在阪東京人」というこのネタも当時まるでウケなかった。
 寝よう。